はしがき
十九世紀後半から二十世紀初頭にかけて思想界に影響を与えたアメリカの哲学者ウィリアム・ジェイムズ(1842〜1910)は、彼の死後半世紀以上もたった今日では、その思想的影響度からいえば、過去の人間となっている。いうまでもなくそれはプラグマティズムの思想そのものが過去のものになってしまったことと大いに関係している。
この事実については分析哲学の如き新しい哲学の勃興の事実からも判断されるのであるが、要するにプラグマティズムがアメリカの精神に他ならないこと、そしてプラグマティズムがフロンティア・スピリットにうらうちされた新生国アメリカのヒューマニズムの中でこそもてはやされうるが、現代の大国アメリカにはもはや不要の思想になってしまったことにその根拠をみるのが妥当であろう。
さてこのプラグマティズムの衰退はプラグマティストといわれるジェイムズ自身にとっての不幸でもあろう。しかしその不幸は当時のアメリカの社会状況に迎合した思想を賛美することになってしまったジェイムズの哲学的態度にも根ざしているものであり、それ故その不幸を一つの歴史的悲劇としつつも、その責めを思想家としての彼にも負わせねばならないだろう。
なぜならば、それは彼の経験論の考えの中にかかる不幸が存していたと考えられるからである。本書はかかる意図のもとにウィリアム・ジェイムズの思想を様々の観点から再吟味し、今日に役立つ新しいなにかをみいださんがための素材を提供しようとするものである。
そこで読者に見はなされまいとするためには、このはしがきにおいて本書の要点を素描しておくのが一番かと思われる。それが著者のきざな「はしがき」文よりも、はるかに効果的な本書のプロパガンダになるからである。
ウィリアム・ジェイムズの思想といわれるものの中には先程のプラグマティズムの他に多元論、偶発論、改善論、道徳主義、パーソナルアイデアリズムや神人同形同性論的有神論等々が含まれている。私(論者)はそれらの思想を総称して「ジェイムズ経験論」と呼ぼう。そしてその中で特に重要なのは「根本的経験論Radical Empiricism」であると考える。
この考え方はジェイムズによって「中途半端な経験論」といわれたイギリスの伝統的経験論に対置される形で提唱されているのであるが、ジェイムズ経験論生成の中心的役割をはたしていると思われる。周知の如く経験論とは知識の素材ないしは根源を「経験」に求める考え方である。ジェイムズ経験論の場合、いささかも知性の介入を許さない経験、そしてかかる経験のみが唯一の実在としてとらえられる考え方にまで徹底されている。
実はジェイムズ経験論が最も反対していたのは、人間の経験の連続的事実を無視する主知主義であった。従ってもともとそれは概念主義、合理論と真っ向から対立していた。この中でジェイムズがヒュームを批判したのは、合理論者が知覚を概念におきかえて物事を考えるように、ヒュームが印象あるいは観念(ジェイムズによれば、それらは経験において実現化されない抽象的原子である)という名を用いて概念的に物事を考えていたからである。それは印象あるいは観念として現出しない大半の経験的事実に対する配慮を奪っているが故にジェイムズによって否定されたのである。
それはいかなることを意味するのであるか。ジェイムズは一切の主知主義的傾向を排除した哲学の形成を可能と考え、それを「哲学における一種の新しい夜明け」であるとみなしたのである。それ故、ジェイムズ経験論の哲学史的な意味は、第一には伝統的経験論にも主知主義が支配している点をヒューム批判を通じて指摘していたこと、第二には「経験」の原点を「純粋経験」という名の直接経験に求め、且つそれを純粋に哲学的な思考の対象として価値あらしめたことにあるといえるだろう。
この事実はジェイムズ自身「概念や言葉でいいあらわせないものだと自分でいっているものを概念や言葉によって論述しようとした」という如く、ジェイムズ経験論がまさに「概念や言葉でいいあらわせないもの」の積極的な表明であることを示している。しかしながら同時にジェイムズ経験論はその論理的表現の困難さから「水が知らない内に熱くなってくるので、いつ叫んだらよいかわからない風呂に入っているような」(ラッセル)もどかしさをわれわれに与える欠点を有している。
われわれがジェイムズ経験論の中に、所謂「生の哲学」として流行した考え方を認めるのは哲学史的に正しいだろう。さらに、かかる哲学を認識論の見地からとらえ、また直接経験を唯一の実在的対象とすることによって独自の実在論をも構築したという意味において、ジェイムズ経験論は評価されねばならないだろう。それ故ジェイムズは「人間の内的性格の表現」そのものとしての哲学の存在を信じ、且つそれが「生に対する人間の全体的反応」として機能せねばならないと真実考えてきた哲学者であるといわれるべきであろう。
ジェイムズのこの考え方は実は西洋の近代哲学のもつディレンマ即ち主観と客観の二元論の解消を意図している。彼はこの二元論が知性のなせるわざであり、それによって経験の実在生が生の象徴としてしか機能せず、生の躍動生が失われると見た。もともとジェイムズには知性とは人間存在の可変性と創造性を否定する概念であり、その知性の働きは実在の連続的、具体的姿をわれわれからきりはなしていると見えた。従ってジェイムズの身心一元論即ち直接経験を唯一の実在とみる考え方は、哲学においていかに主知主義がはばをきかせようが、人間の情意には勝てないという考えの表明であった。
しかしこの近代哲学の超克の仕方そのものは一見人間主義的であるが、他方悪い意味のエゴイスティックな独善性を帯びている。ジェイムズにとって近代哲学は「機械論と主観主義」ないしは「科学的哲学思想と体系的決定論的観念論」(ボヘンスキー)の二元性をもっていたが、ともにそれらは「われわれの精神によそよそしい」という気質的判断によって超克されねばならなかったのである。この超克はボヘンスキーのいうように「生の権利、人間的な人格の権利と精神的価値とを救うこと」を使命とするという意味において人間主義的であるが、人間存在の問題を人間の心理の問題あるいは生物学的な生の問題にすりかえることが超克の可能性を保証するかの如き錯覚をわれわれに与えている。
かかる見地からジェイムズ経験論は哲学史的にいかに見られるのが妥当であるのか。それはジェイムズ経験論における主意主義的な考えが近代哲学のもつ「よそよそしさ」の安全弁としてしか機能しえず、あたかも西洋の思考パターン(主知主義)の尻ぬぐいの役を負わされているという如くにみられるべきである。なぜならばジェイムズにとっては近代哲学の二元性はよそよそしい感じの対象であるという認識に基づいているからであり、且つその超克が個人の精神の葛藤の実用的解決の第一義的要求に基づいており、それ以上に、即ちよそよそしさを感じさせる背景にはかかる二元性が社会的抑圧的実体として機能しているという認識には基づいていないからである。
それ故にジェイムズ経験論の場合、近代哲学の超克はそれの二元性のもつよそよそしさを寸時猶予し、代わりに直接経験という生物学的自然的単位を解明するという役割を果たしたのである。だがそのような解明とは生物的個人的生存にとっては重要であるように見えるかもしれないが、社会的には虚構であるか、それとも事実をありのままに見るという名の現実との一体化であり、調和化であり、又近代哲学の二元性の単に与える精神的苦しみの緩和化以外のなにものも結実しないのである。そしてジェイムズの考えるような主意主義はそれらの作用の船頭の役割しか果たしていないのである。
かかるジェイムズ経験論は哲学として考えられた場合、認識論、実在論のある種の考え方を示唆しているために、なお見られるべきものがあるが、社会理論的には過去の考え方とされねばならない。なぜならばジェイムズ経験論は新生国アメリカ時代のヒューマニズムの中でこそ、その雄々しき精神を認めるが故に、適切にもてはやされたが、ジェイムズ経験論のもつ主意主義の賛美の傾向は、ムッソリーニがジェイムズ経験論を通じて彼を「哲学の師匠」といった如く、多分に、別の面から利用されるおそれがあるからである。その意味からもジェイムズ経験論は哲学についての新しい意味づけを問うているのである。
尚、本書を作成するに当たり、補足説明を要するもの、あるいはジェイムズ及び彼の考え方に対する他人の評価に関しては、注釈を設け、( )に漢数字を記して整理し、別にとりあげている。又本書においてジェイムズ自身の言葉を引用する場合は、( )にアラビア数字を記し、その出典箇所を別にしてまとめている。
一九七二年一二月
著 者 記 す